平安時代の歴史
延長5(927)年に完成された延喜式(平安時代中期の役人の実務規定)で、昆布は租税として指定され、朝廷が行なう仏事や神事に欠かせないものとして登場しています。朝廷に貢納され文武百官や神社・寺院へ支給され、神社では神饌として神に捧げられ、寺院では精進料理に用いられました。
鎌倉時代の歴史
仏教文化が人々の生活に深く影響を与えたこの時代、寺院の生活習慣が一般にまで取り入れられるようになり、精進料理が普及しました。精進料理に欠かせない昆布は寺院食から武家の食卓へも広がっていきました。
室町時代の歴史
蝦夷と越前・若狭を結ぶ日本海航路が開発され、活発な交易が行われていました。北で採れた昆布は、京都へ運ばれ、華やかな都の食卓を飾りました。料理法の進歩に従い、「昆布巻」など昆布を使ったさまざまな料理も登場しました。また、戦乱に明け暮れたこの時代に、武士たちは「打ち勝ちて喜ぶ」ためにと昆布、あわび(打ちあわび)、勝ち栗を膳にのせ酒を酌み交わしました。
江戸時代の歴史
太平な世が続き、生活も贅沢になり、江戸文化の特質である「粋」と「通」が料理にも及び始めました。昆布は代表的な茶会における「懐石」にも登場しており、宴席に欠かせないものであったようです。江戸の食べ物商は6160余軒にものぼり、「こぶやあげこぶ」と声をかけて揚げ昆布を売る物売りも市中を流して歩きました。また、西回り航路の開発によって「天下の台所」大坂に送られるようになり、元禄の頃には、とろろ昆布など加工品が盛んに製造され、それらを商う「あきんど」が活躍するようになりました。加工法の発達により、昆布は広く人々に愛され、その日常に浸透していきました。
明治時代の歴史
明治維新後、昆布業は新政府の活発な産業保護政策のおかげで本格的な発達を遂げました。産地である北海道の収穫量は着実に増加し、この頃すでに「浪速名物」としてゆるぎないものになっていました。
大正時代から昭和の歴史
昭和16年太平洋戦争に突入し、昆布は統制品となり、栄養補助食品として、また貯蔵食品として重要な役目を担うこととなりました。統制化は、戦時下といえども、昆布を日常的に食べてきた大阪人と昆布業者にとっては痛恨の極みでした。戦後、統制は解除され、自由経済が到来し、大阪商人たちは相伝の加工技術を生かして、往年の声価を取り戻していきました。統制配給により昆布は全国で食べられるようになり、その後、大阪万国博や自然食品ブームにより、さらに需要を伸ばしていきました。
昆布のロード
昆布の歴史を話す中で必ず出てくる昆布ロードとは、日本海を行き来した北前船は米・筵・醤油等を北海道に運び帰り荷として、昆布・鰊の〆粕(魚肥)を本州にもたらしました。
昆布は富山の売薬商人を介して薩摩にもたらされ、そこから遠く琉球、ひいては中国まで流通し、各地に独自の食文化を発達させました。ちなみに、薩摩に昆布をもたらした富山の売薬商人はその見返りとして中国産の薬種を得たと言われています。北前船は商品を運ぶだけでなく、出航地で仕入れた商品を寄港地で売り、さらに仕入れて利ざやを稼ぐ商社的な経営が特徴です。
それだけに船主、船頭の商才(頭、腕)がものをいう買い積みで「千石船、一航海で千両の利益をあげる」と言われました。 砂糖を昆布に代えて琉球で売る、その経済の実態は、富山の商家が関わっていたという事実が歴史的に明らかになってきました。