かつお節の歴史

かつお節の歴史「紀州甚太郎」と「土佐与市」

だしの歴史は古く、かつお節の歴史の起源を辿ると『古事記』に「型魚」という言葉で登場して、「型魚」が現代のかつお節だと思われます。『大宝律令』や『養老律令』、『延喜式』には「堅魚」、「煮堅魚」、「堅魚煎汁(かたうおいろり)」などと記され、かつおの加工品が当時の賦役品になっていたことがわかります。トカラ列島には、「素干し」品であるが、「かつほぶし」と書かれた最古の記録が残されている。平安朝以前には、伊豆・土佐・紀伊など10カ国から朝廷に貢納されている。神社などの棟木についた飾りを「堅魚木」とも呼んでいるところからも、そもそもかつおが昔から重宝され、朝廷への献上品であったり、神へのお供え物として、海産物としは高い評価があった。かつお節の歴史は、古くはモルジブ共和国から伝えられたと言われています。世界の中で食習慣として一般にかつお節が認知されているのは、モルジブと日本だけである。モルジブは海に囲まれており、食生活における資源を海産物に頼らざるをえないわけではあるが、かつおが漁獲の70%程度を占めるほど獲れて、「モルジブフィッシュ」と言われるほど、国魚として認知されている。政治的背景には、イスラム教国となった為に、豚を食べず、地理的背景ではさんご礁で農業も発達しなかった。その為、地域特性を考えると防虫や腐敗防止の為に発達したと考えられる。

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かつお節の歴史は古く5世紀頃が起源

かつおを食べる習慣は、非常に古い歴史があり、青森県の八戸遺跡などの調査で縄文時代には食べられていたことがわかっています。また、古い文献にもかつおが食べられている記録があり、大和朝廷草創(4~5世紀)以前に、『干しかつお』『堅魚煎汁(かつおノイロリ)』を創案しています。干しかつおは、かつおを素干にしたもの(堅魚)と、煮てから干したもの(煮堅魚)です。煎汁は、煮堅魚の煮汁を煮詰めて作ったもので、調味料として使われてきました。日本人は、農耕民族でありながら周囲が海という特性もあり水産資源は豊富にありました。その中でかつおは、貴重な動物性タンパク源として重要な位置にあり、大和朝廷は諸国に干しかつおと煎汁の献納を強制しました。特に煎汁は、大陸伝来の調味料『未醤(ミソ)』・『醤(ヒシオ)』・『酢』など発酵性調味料と肩を並べる純国産調味料として、飛鳥・奈良・平安時代を経て、鎌倉・室町時代まで重用されました。 その後、室町時代になって農業の進歩により、大豆の生産が増加すると、大豆性調味料の使用量が増え、その分煎汁の使用量が減り、消滅していきました。しかし、かつおの調味料の味は、人々の脳裏から消え去らず、干しかつおから焙乾法の出現により生まれたかつお節に引き継がれることになり、日本人の調味料として不動の地位を確立していきます。

かつお節の歴史|かつお節の原型は古事記にも書かれている

室町時代 かつお節の登場により食文化が変わる

室町時代に入り、干しかつおに「焙乾」という技術が導入され「かつお節」ができました。江戸時代に入る前から焙乾小屋は、五島・平戸・紀伊・志摩・土佐各国のかつお浦に建てられかつお節が作られていたと思われます。 当初の焙乾設備は台所兼用のもので、囲炉裏の上にしつらえた平籠に卸したかつおを入れておくと、煮炊きをする熱と煙により自然と焙乾されるものでした。 江戸時代初頭には、北九州方面で作られたかつお節は、ポルトガル船・イギリス船などにより、平戸から琉球を経て、明国・シャム国などに輸出されました。 その後、かつお節が広く世間で名声を得たのは、紀州で焙乾小屋が改良され、かつお節が進歩を始めてからです。堺港の大商人や、京の都の上流家庭で、煮物・汁物料理が盛んになり、従来の調味料だけでは物足りなくなり、旨味を付加するためにかつお節がだしとして用いられるようになりました。 江戸時代初期は、この紀州で作られたかつお節が「熊野節」の名で一世を風靡しました。ちょうどこの時期にたくさんの料理書が発刊され、その中で調味料としてかつお節だしについて触れぬものはないほど必需品として取り上げられています。かつお節の力により、日本料理が形成されたといっても過言ではありません。

かつお節の歴史|室町時代のかつお節つくりの様子

江戸時代 「紀州甚太郎」と「土佐の与一」が登場

江戸期になると、かつお節製造方法の記録を多く見つける事ができる。『本朝食鑑』(1697(元禄10)年)や『和漢三才図会』(1712(正徳3)年では、かつおを煮熟して曝乾(ばくかん)したという記述がある。そして、『日本山海名産図会』(1799(寛政11)年)では、藁火を用いて燻したという具体的な記述がある。そして、かつおの腸などの内臓を塩漬けした酒盗(塩辛)の記載もある。燻煙によるかつおの加工の方法(燻乾法)が開発されたのは江戸中期である。それまでは、煮たかつおを天日と火熱で乾かす方法(焙乾法)がとられていた。燻煙加工は紀州の印南浦(現在の和歌山県印南町)出身の甚太郎という漁民が1674(延宝2)年に土佐の宇佐浦(現在の高知県土佐市)で初めて行ったと伝えられている。彼はかつお群を追い求めて足宇摺沖へ出漁した時に時化で遭難し漂着した宇佐浦に住み着いて、播磨屋佐之助の支援を元に節製法を伝授したという 土佐藩では、これを藩の秘法としました。宇佐浦地方から、土佐清水へは甚太郎の子供「二代目甚太郎」が伝えたといわれています。 その後、「土佐の与一」が全国へ広げました。

かつお節の歴史

かつお節の歴史と紀州甚太郎

かつおの漁法とともに、熊野節の製法を土佐国清水浦に伝えたのが、紀州印南浦のかつお漁民の角屋甚太郎親子とその一統といわれています。土佐藩はかつお節を藩の貿易品にしようと考え、熊野節の製法を積極的に取り入れました。 甚太郎は焙乾(燻乾)の創始者でもあります。元禄時代(1688)前後から安永(1780)のころまでに大きな改良が行われ、煮熟・焙乾・カビ付けの草案に及び、改良節と呼びます。 それまでは藁を用いての火乾でしたが、ナラ・クヌギ等の薪を使い、煙で燻す焙乾法を考案しました。また土佐節は、カビが生え易い欠点があり、いったん生えたものは大変カビ臭く、評判を落としました。力を入れてきた土佐藩にとっては大問題であり、改善にあたりました。対策としては、(1)焙乾を徹底し、日乾を併用する (2)カビ気退治のために、逆にカビを利用する(日乾した節をコモで包み、体一面にかつお節カビを付着させることにより、悪カビの発生を防ぐ)というものでした。 その後、「土佐節」はかつお節の大消費地・集散地であった大坂で、主力商品となっていきました。以上の加工方法により、土佐から大坂さらに江戸までの、長い輸送にも耐える改良土佐節が完成しました。この製法は秘伝とされ、甚太郎の故郷紀州熊野に伝えられた程度で、永年他国へは公開されませんでした。 しかし、薩摩藩は土佐節の改良に関わった紀州印南漁民の一人を招くのに成功し、その秘法を入手することができました。これによって、熊野節をしのぎ土佐節に次ぐ優良節として「薩摩節」は天下に知られるようになりました。

かつお節の歴史と土佐与市

江戸の後期に、紀州印南浦の住人で、土佐与市というかつお節職人が、安房(1781)・伊豆(1801)の両国に改良土佐節を紹介しました。これを熱心に取り入れた伊豆では、土佐節の製法を見習った上で、カビ付けの回数を2~3回以上行い、脂肪や水分を節の中から吸い出す製法をあみだしました。「伊豆節」の誕生です。その後、土佐節とならび、伊豆節は全国的に高い評価を受けることとなりました。 「焼津節」は、直接与市から技法を授かっていませんが、その起源は伊豆の改良節ですので、与市によって伝えられたといえます。 その後、改良節は全国に広められていくことになります。 後年、与市は望郷の念禁じがたく、故郷の紀州印南に立ち返りましたが、秘法を他国へ漏らした罪により、追い返されてしまいます。房州千倉に引き返し、親交のあった渡辺家に身を寄せました。文化12年3月23日、ちょっとした風邪が原因で、58才で他界しました。

明治時代 かつお節は、土佐節、薩摩節、伊豆節の3大特産地

明治時代に入ると、伊豆節が目覚しい発展を遂げ、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるようになりました。明治30年頃、土佐節と伊豆節の長所を取り入れ、徹底した焙乾と3~6回のカビ付けを行った「本枯節」である「焼津節」が登場しました。以後、かつお節業界の本流となり現在に至っています。かつお節は、武士の「兵糧食」として、欠かせないものでした。「訓蒙工業妙」「武教全書詳解」「武事精談」の兵法書や、「三河物語」などには、兵糧食としての記述があるほか、「かつおぶし」が「勝男武士」という名前で、縁起のよさもあります。日清・日露戦争でも使われました。
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