昆布流通の背景
昆布の収穫地は日本の最北端、北海道。流通の技術が未発達であった時代、千数百キロ離れた昆布の一大消費地、関西へ運ぶ事は大変な仕事でした。特に、海路で東北の太平洋側の厳しい気象条件をクリアするのは至難の技。そのため、海の静かな日本海側がもっぱら北海道と関西を結ぶ交易路として発達してきます。北海道から運ばれた昆布が荷揚げされたのが、敦賀港です。越前、若狭の中心、敦賀港は背後に国内最大の湖、琵琶湖をひかえます。荷揚げされる物資は陸路、琵琶湖の北岸、海津、今津へと運ばれ、丸子船と呼ばれる和船に積みかえられ、大津、堅田を経由し都へと運ばれました。江戸時代の最盛期には、琵琶湖では1,400艘の丸子船が活躍していました。北海道と関西を拠点に、日本海沿岸の諸藩を結んだ交易は、江戸時代には最北の藩であった松前藩が取り仕切ることから、松前交易と呼ばれました。近代日本以前の唯一、最大の交易路でした。
蔵囲昆布の誕生
昆布は、収穫後一気に天日で干し上げ、端を切り落とし、昆布の種類によっては幾重にも折りたたみ…と、結束(出荷に備え、荷姿に仕上げること)するまでに大変な手間と時間がかかっています。夏に収穫された新昆布が敦賀に届くのは、そろそろ雪が降ろうかという晩秋です。古来より冬季の積雪量の多い北陸では、冬に入るとかさむ荷をともなう旅は不可能でした。その為、敦賀で荷揚げされた昆布は、荷役蔵でそのまま越冬し、春になって出荷される事が多かったようです。さて、待つこと数ヶ月。冬の間、蔵に収納しておいた昆布をためしに口にしてみると、新昆布の持つ荒々しさ、磯臭さが良い加減に抜けて不思議と美味しい。蔵で寝かせるうちに、雑味は消え、昆布本来のうま味が際立ったのです。これが、「蔵囲(くらがこい)昆布」のおこりのようです。すなわち、蔵囲昆布とは、敦賀の気候条件を因として、必然的に誕生したものといえます。しかし、時を経るにつれ交通事情が良くなり、冬季の輸送も可能になると、蔵囲いの手法は廃れていきます。施設としての昆布蔵の整備や、在庫となる昆布の資金面での膨大な費用、長い年月昆布を管理する人の手間等を考慮すると、高額な昆布を「在庫」として持つことは、多大なリスクを抱えることになります。気象条件によってはカビが発生し、商品価値が無くなることさえあるのです。そのような事情から今では殆ど見られなくなりました。 新昆布をありがたがるのは不粋。翌年、桜の花の散る頃まで寝かせてから―乾物としての昆布の食べ頃を昔の人は心得ておりました。昆布臭、磯臭さ、ぬめりを抜き、熟成を重ね、うま味を増す「蔵囲昆布」は、今でも京都を中心とする名料亭では生きております。
もう一つ蔵囲(くらがこい)昆布で大切な事は、海から引き上げた昆布を、その日の内に一気に天日乾燥する事です。幸い、両島では昆布を干す、干場が広く整備されております。太陽の力で昆布を干すことは、昆布の品質を高めるため、古くから最重要視されてきました。天日乾燥された昆布は適当な水分を含み、それが時間をかけて熟成する要因といわれています。昔からのやり方が、昆布や乾物の世界では、今も一番大切なことです。世界的にも珍しい風土を持つ島、礼文島、利尻島が利尻昆布の最高峰、島物の利尻昆布を育てます。 しかし、島物の利尻昆布とはいえ、収穫の当初からあのすばらしい味と香りを持つわけではありません。むしろ、他のどの昆布よりも荒々しく、野性味に富むのが島物の特徴。一年、二年、時には五年以上に及ぶ長期間の熟成を経ることで、珠玉ともいうべき昆布が生まれるのです。 そして、長期間の熟成に耐えるのは上質の昆布のみ。力のない昆布を年単位の期間熟成せても、期待に応えるものはできません。 利尻昆布の中でも特に、別格浜に格付けされる香深浜産の昆布は、熟成を深めるにつれ、艶と黒味が増し、昆布臭、磯臭さ、雑味は消えて芳醇な香りを放つようになります。肥沃な大地と先人の知恵、多くの人の手と長い時間が生み出す、奇跡のような宝物です。
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