かつおだしの歴史
かつお節の歴史は、江戸時代以来培われた食習慣の影響が現在まで受け継がれています。全国的に需要を見ますと、西高東低になります。かつお節の製造方法を確立した高知・鹿児島・静岡等の需要は当然大きいですが、江戸時代から食文化の発達した大津・岐阜・京都・名古屋等も、古くからかつお節の需要が根付いています。中国地方は西日本に位置しながら、需要が少ない地域です。瀬戸内海は煮干・日本海側は北陸地方までアゴ(トビウオ)の産地であることが要因といえます。北陸地方も需要が少ないですが、これは北海道からの昆布ロードの陸揚げ地で、昆布だし文化が発達しているのと、煮干し・アゴの需要が盛んな土地柄によります。沖縄が全国一の消費地であるのは、江戸の初期から外国船により長崎港・平戸港を発して南方もしくは中国(明・清)へ輸出されるかつお節の中継港であったのと、薩摩藩が領内産のかつお節の中国向け輸出基地としたことにより、沖縄の食文化に根付く要因となっています。
かつお節だしの歴史と関連情報
かつお節のだし煮干しだしの歴史
煮干しの発祥地は、黒潮に乗ってイワシが押し寄せる九州・四国の沿岸地方です。五島列島や紀伊水道が近世漁業の先進地となったのは、このイワシとそれを追いかけるクジラ・カツオなどの魚群が豊富だったからです。これらの地方では、無尽蔵に獲れるイワシの処分に困り、さまざまの利用法が考え出されました。その中で最大の産業に成功したのが干鰯<ホシカ>の製造です。煮干しの歴史は、江戸幕府成立以来、米作を基本とする重農政策が推進された結果、肥料価値の極めて高い干鰯が盛んに生産されました。干鰯造りには大型のイワシが適しますが、小型のイワシも大量にあり、効果的な利用方法が考えられました。江戸時代が進むにつれて、だしへの関心は高まっていきますが、かつお節や昆布は高級品であって、一般の家庭では容易に入手できませんでした。江戸時代中期の享保以降になると、かつお節の代用品としてイリコが普及しはじめました。沿岸に殺到する子イワシを捕獲して造るイリコは量産され、価格も安いものでした。商機を見るに敏な大阪商人がこれを見逃すはずはなく、豊後水道・瀬戸内海沿岸の漁民に、イリコ製造の援助奨励を行い、これを集荷して西日本を中心に売りさばきました。明和年間(1764~1771)には、大阪に「煎雑喉<イリザコ>」問屋仲間(組合)ができていた記録があります。大阪はかつお節・昆布のだしを使うため、近畿地方ではあまり売れませんでしたが、北陸・中国・四国・北九州に商圏を広げていきました。
煮干しの歴史と関連情報
煮干しのだし昆布だしの歴史
昆布が、蝦夷地(北海道)より北前船で日本海を通り、北陸の敦賀・小浜に陸揚げ・陸路を経由して琵琶湖の水運を利用して、京の都へ運ばれたのは、江戸時代以前の室町時代からです。仏教信仰の歴史が最も古く、室町時代には精進料理が発達していた、京都を中心とする近畿地方はもちろんのこと、北前船の寄港する日本海沿岸の港町に、昆布の食習慣が根付きました。この昆布の運ばれた道を「こんぶロード」と呼びます。海上交通が盛んになった江戸時代には、北前船は山陰沖・関門海峡・瀬戸内海を経由して、直接商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになります。(西回り航路)その後こんぶロードは、江戸・九州・沖縄・中国(清)へと伸びていきました。沖縄は、鹿児島と中国との貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。こんぶロードが伸びて新しい土地に昆布がもたらされると、そこにだしとしてだけでなく、独自の昆布食文化生まれました。大阪では醤油で煮た佃煮ができました。沖縄ではブタや野菜と炒めたり、煮こんだりして食べられるようになりました。一方、関東地方は昆布ロードの到達が遅かったため、全国的に見ても昆布の消費量が少ない地域となっています。こんぶロードが日本の食文化に影響を与えていることが分かります。
昆布だしに関する詳しい情報昆布のだし
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